豊かな語彙は表現を多彩にしますが、カタカナ語の乱用のように、意思疎通に問題が生じることもあります。実は、500年前のイギリスでも、同じような問題が起こっていました。
その名は「インク壺言葉」です。
当時は、ラテン語やギリシャ語を使うことが知性の証とみなされていました。そのため、学者や作家たちは、自分の知識をアピールするために、難しい借用語(インク壺言葉)を過度に使用するようになりました。やがて、あまりにも文章が複雑になってしまい、多くの批判を受けることになりました。この流れは、現代におけるカタカナ語の乱用にも、通ずるものがあるかもしれません。
「インク壺」は、羽ペンに使うインク入れのことを指します。学者や作家が使うような「インクのにおいがする言葉」に由来しています。
インク壺言葉は、中英語(Middle English)から近代英語(Modern English)への移行期である1500年頃から、もしくはイギリス・ルネサンス期の16世紀頃から使用され、また問題視され始めました。この頃は、英語の世界的な優位も徐々に高まっていた時代でもありました。
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ルネサンス期では古典文化が再興し、多くのラテン語やギリシャ語の言葉が英語に流入しました。また、当時の英語は4文字程度の短い単語が多く、表現をより豊かにするという理由でも借用語が取り入れられました。インク壺言葉という用語は、それらの借用語に反発する言語純粋主義者(linguistic purist)によって、嘲笑的に使われ始めたのだそうです。現代で言うなら、「インク壺言葉?(笑)」のような感じでしょうか。
出典:Inkhorn terms – The Dictionary Project
特に、難しくて長い借用語が批判の対象になりました。インク壺言葉の多くは廃語になりましたが、現代まで残っているものもあります。Etymonlineなどによれば、anonymous(匿名の)、catastrophe(大災害)、celebrate(祝う)、encyclopedia(百科事典)、commit(委託する)、ingenious(利口な)、confidence(信用)などの単語があげられます。
commit(コミット)は、14世紀後半にラテン語から英語に伝わり、インク壺言葉だと批判されました。その650年後に日本にも伝わり、カタカナ語として再び批判されています。何だかかわいそうですね、コミット。
出典:Inkhorn terms – World Wide Words
出典:commit (v.) – Etymonline
そもそも、英単語の半分近くはラテン語やフランス語に由来するので、どこまでが「過度な借用語」なのかの判断は難しい問題です。
日本語の場合でも、例えば、テーブル(机)、モニター(画面)、シューズ(靴)、ミルク(牛乳)などのカタカナ語は、恐らく過剰とは言えないですよね。ただ、既に存在する言葉を押しのけて使われる正当性があるのかは、議論の対象になると思います。私も物書きの一人として、使う言葉には気をつけていきたいと思います。
まとめ
今回は、自戒も込めて、「インク壺言葉」についてご紹介しました。
インク壺言葉の歴史は、現在のカタカナ語の問題にも通じています。
ラテン語から英語に伝わって批判され、その650年後に日本に伝わって批判されるcommit(コミット)が分かりやすい例ですね。コミュニケーションは、お互いの情報を交換し、理解し合うことを目的にしますが、借用語の乱用は、それらを促進するどころか、妨害してしまう可能性もあります。とはいえ、言語純粋主義に陥ってしまえば、多様性が排除され、対立や偏見を生んでしまいます。恐らく、言葉にも、中庸や調和が大切なのだと思います。場所や状況に応じて、適切な言葉を使っていきたいですね。