南アメリカの多くの都市部では、スペイン語やポルトガル語の単一言語社会が形成されていますが、実は600以上もの先住民言語が存在しています。そのため、地域によっては2言語を使い分けるダイグロシア社会も広がっています。本記事では「南米におけるダイグロシアと言語政策」についてご紹介します。
ダイグロシア(diglossia)とは
ダイグロシア(diglossia)とは、1つの社会で2つの言語を使い分けることです。
似ている言葉にバイリンガル(bilingual)がありますが、意味が微妙に異なります。バイリンガルは個人レベルで2つの言語を使い分けること、ダイグロシアは社会レベルで2つの言語を使い分けることです。
英語ではdiglossiaと表記しますが、この言葉はギリシャ語で「バイリンガル」を意味する「δίγλωσσος(diglōssia) 」のフランス語訳の「diglossie」に由来しています。di-は「2つの」、-glossiaは「舌の、言葉の、言語の」という意味があります。もともとダイグロシアはバイリンガルと同じ意味で使われていましたが、1959年にアメリカの社会言語学者チャールズ・A・ファーガソン(Charles A. Ferguson)によって意味が使い分けられるようになりました。
言語の使い分けを、個人ではなく社会全体のものとして捉えた、まさに社会言語学の視点ですね。
ダイグロシアは2言語併用社会のことですが、それ以外の言語での呼び方をまとめました。
個人 | 社会 | |
2言語 | バイリンガル | ダイグロシア |
3言語 | トリリンガル | トリグロシア |
多言語 | マルチリンガル | ポリグロシア |
3つの言語を社会レベルで使い分けることはトリグロシア(triglossia)といいます。例えば、ルクセンブルクでは3言語が併用されているのでトリグロシア社会と言えます。話し言葉は主にルクセンブルク語、書き言葉はドイツ語、法律などの公的な文章は主にフランス語が使用されています。
複数の言語を使い分けることはポリグロシア(polyglossia)と呼ばれています。ポリグロシアは元々シンガポールやマレーシアなどの多言語社会を言い表す言葉として使われ始めました。
個人レベルでの言語の使い分けは、4言語話者のクアドリリンガル(Quadrilingual)や、5言語話者のペンタリンガル(Pentalingual)など、さらに細かな呼び方があります。その他の呼び方については下の記事でまとめてます。
南米のダイグロシアの現状
南アメリカの多くの地域では、スペイン語やポルトガル語が優位を占めています。エスノローグによると、2020年に南アメリカで最も話されている言語はスペイン語の約2憶1400万人、2番目に多い言語はポルトガル語の約2憶1100万人でした。2022年の南米の総人口がおおよそ4億3647万人なので、殆どがスペイン語かポルトガル語話者になりますね。
参照:South America Population – Worldometer
それ以外の言語を多い順に見てみると、ケチュア語が約770万人、英語が690万人、グアラニー語が約610万人でした。ちなみに日本語は40万人ほどです。
ダイグロシアが浸透しているパラグアイなどでは都市部でも2言語が併用されていますが、先住民言語が話されている地域は基本的に都市部から離れた農村部です。ただ、近年は急速な都市開発によって、都市部と農村部の格差が顕著になっているため、仕事を求めてスペイン語やポルトガル語社会である都市部に移り住む人々も増加しています。
先住民言語から植民地言語のスペイン語に言語交替(language shift)することは、ヒスパニゼーション(hispanization)とも呼ばれています。
ポルトガル語圏のブラジルには200近い先住民言語がありますが、2005年の先住民言語の話者数は4万人以下にすぎないという調査結果もあります。これは当時の人口の約0.002%に過ぎないので、非常に少ない数と言えますね。
参照:“SOBRE AS LÍNGUAS INDÍGENAS E SUA PESQUISA NO BRASIL” Ciência e Cultura
ボリビアのダイグロシア
南アメリカ大陸の真ん中に位置するボリビアでは、植民地時代のスペインの影響が遠かったこともあり、比較的に先住民やメスティーソの割合が多くなっています。そのため、2言語併用のダイグロシア社会が定着しています。
2012年のボリビアの国勢調査によると、人口が初めて1000万人に達したそうですが、話されている言語の内訳を見てみると、スペイン語が60.7%、ケチュア語が21.2%、アイマラ語が14.6%、グアラニー語が0.6%、残りは33の少数言語や外国語でした。オリジナルの情報源は見つかりませんでしたが、米国CIAのウェブサイト『The World Factbook』にデータが残っているので興味がある方はご覧になってみてください。
参照:Bolivia – The World Factbook
私は何年かボリビアに住んでいましたが、ケチュア語は街中でも良く聞こえてきます。エスニックグループの割合も、ケチュア族が45.6%、アイマラ族が42.4%なので、殆どが先住民かメスティーソになりますね。スペイン語話者は6割とのことですが、ケチュア語やアイマラ語を話せるバイリンガルもいます。
ちなみに、信仰されている宗教はカトリックが81.8%です。都市部からかなり離れた田舎の村を訪れたことがありますが、綺麗な教会がそびえ立っていたのが印象的でした。
多言語社会の実現には、政治的な後押しも欠かせません。ボリビアの政策を見てみると、バイリンガル教育が正式に開始されたのは1994年です。2009年には、エボ・モラレス元大統領によって17つ目の憲法が新たに公布され、スペイン語や少数言語を含めて37つの公用語が制定されました。この中に、「政府や各省庁で使用される言語は2種類必要である」、という条文が明記されています。そのため、公共セクターにおいてはバイリンガルは義務化されているとも言えそうです。学校教育においては、スペイン語の他にもう1つの先住民言語を習得することが定められています。
ただ、都市部ではスペイン語モノリンガルが進行しています。職場、学校、新聞、マスメディアなどでは広くスペイン語が使用されているからです。ケチュア語やアイマラ語は現在ではアルファベットを基盤とした文字がありますが、もともと文字がなかったことも話者数減少に拍車をかけているのかもしれません。ただ、他のラテンアメリカ諸国と比較すると多文化共生が進んでいると言えます。
パラグアイのジョパラ
パラグアイでは、多くの人がスペイン語とグアラニー語(Guaraní)のバイリンガルです。
2012年のパラグアイの国勢調査によると、パラグアイの家庭で最も話されている言語は、46.3%がスペイン語とグアラニー語、34%がグアラニー語のみ、15.3%がスペイン語のみ、という結果でした。スペイン語を何らかの形で話す人が約87%、グアラニー語を話す人が90%以上、という結果もありました。
これは義務教育で学習されていることも一因のようです。1992年に制定された6番目のパラグアイ憲法では、多文化やバイリンガルの国であることを宣言し、スペイン語とグアラニー語が公用語に指定されています。
パラグアイではどちらの言語もよく使用されていて、言語を切り替えるコードスイッチング(code-switching)が頻繁に行われていることから、2つを混ぜ合わせたジョパラ(Jopara)も広く話されています。
ジョパラはグアラニー語で「混合物」という意味があり、名前の通りスペイン語の外来語がグアラニー語に混ざったことから名付けられました。新しく作られた混合言語と言うよりかは、グアラニー語の方言か、言語を切り替えるコードスイッチングの部類です。
ジョパラの特徴は話者や地域によって異なります。例えば、都市や若者層ではスペイン語の割合が多く、農村部や高齢者ではグアラニー語の割合が多いジョパラが話されています。
チリのバイリンガル教育
チリは他の南米諸国と比べると先住民の割合はそれほど多くなく、約10%ほどです。
チリで話されている先住民言語で有名なのはマプチェ語(Mapuche)です。マプチェ語はユネスコによる言語の消滅危険度では「危険(definitely endangered)」に指定されてる言語です。ただ、現在ではマプチェ族の多くは都市部に住んでいるため、スペイン語モノリンガルか二言語話者が多く、話者数は年々減少しています。
これには、都市の方がより良い教育が受けられ、給料が高い仕事にありつけるという理由もあります。自由主義を掲げているチリでは以前から格差問題が話題になっていて、格差の度合いを表すジニ係数を見てみても、OECD諸国の中ではワースト3に入る0.44です(2017年現在)。ちなみに、OECD諸国を悪い順に見てみると、南アフリカ共和国が0.62、コスタリカが0.47、チリが0.46、メキシコが0.45です。日本は0.3です。
ただ、その他の中南米諸国のジニ係数を見てみると、ブラジルは0.53、コロンビアは0.51、中米諸国は0.40~0.50なので、ラテンアメリカ全体では比較的に良い方と言えるかもしれません。
その他の南米地域
長くなってしまったので、ここからはまとめて見ていきたいと思います。
ダイグロシアが定着されたことで異なる言語が混ざり合うケースもあります。例えば、ウルグアイとブラジルの国境付近では、スペイン語とポルトガル語をミックスしたポルトニョール(Portuñol)という言葉が話されています。詳細については下の記事でまとめているので参考にしてください。
メキシコでは、1980年代から先住民コミュニティの権利運動が盛んになり、これを通じて単なる言語教育としての「バイリンガル教育(bilingual education)」ではなく、文化も含めた「異文化バイリンガルプログラム(intercultural bilingual education)」へと移行しました。言語を学ぶことは文化を学ぶことでもあるので、その考えに基づくものです。
エクアドルでは、バイリンガル教育は先住民組織によって管理・運営されているそうです。総人口における先住民の割合が多いことも一因かもしれませんね。
ペルーでは、1975年に南アメリカで初めてケチュア語が公用語になりましたが、言語教育が単文化形成を助長するとの批判もあるようです。教育は大切と言っても、何を教えるのかも難しい課題ですよね。
今回紹介しきれなかった国の現状や言語政策については、また改めてまとめたいと思います。
まとめ
今回は「南米における2言語社会とダイグロシアの現状と言語政策」についてご紹介しました。
ダイグロシアとは、1つの社会で2つの言語を使い分けることです。南米ではスペイン語やポルトガル語が優勢ですが、ボリビアやパラグアイなどでは都市部でもバイリンガルが多いだけでなく、異文化バイリンガル教育が推進されるなど政治的な後押しもあり、ダイグロシア社会が定着しています。