なぜオランダ語の外来語は日本に入って来たのか

長崎海軍伝習所絵図

オランダは江戸時代に西洋の国で唯一日本と交易があった国です。歴史的にはポルトガルの方が早くから交易がありましたが、それでも、鎖国下の約200年はオランダが西洋との貿易を独占することになりました。

今回は「なぜ&どのようにオランダ語の単語が日本に入って来たのか」について振り返ります。

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日本の橋渡しとなった「リーフデ号」

川原慶賀「長崎港図」川原慶賀「長崎港図」 出典:Wikimedia Commons

日本とオランダの関係は、1600年に日本に漂着した「リーフデ号」に端を発しています。

当時のオランダは、スペインからの独立をかけた「八十年戦争(1568~1648年)」のまっただ中でした。北部の一部は、1581年に「ネーデルラント連邦共和国」として独立しましたが、スペインとは対立関係にあり、交易相手を求めて積極的に海外へ進出していました。

1598年には、リーフデ号を含む5隻の船団が東洋を目指し、ロッテルダムから出港しました。しかし、嵐に遭遇してしまい、リーフデ号の船員24名だけが、辛うじて日本へ漂着しました。

乗組員だったオランダ人のヤン・ヨーステン(日本名:耶揚子)や、イギリス人のウィリアム・アダムス(日本名:三浦 按針)は、海外貿易に積極的だった徳川家康と謁見し、外交顧問として活躍しました。そのような働きもあり、江戸幕府は1609年にオランダと、1613年にはイギリスとの間で朱印船貿易を開始しました。

ポルトガルを追い出した「オランダ東インド会社」

オランダ東インド会社の商館「オランダ東インド会社の商館」 出典:Wikimedia Commons

日本の鎖国は、一般的には1639年の「ポルトガル船入港禁止」から、1854年の「日米和親条約締結」までとされています。鎖国下の日本において、オランダはヨーロッパで唯一交易を保ち続けた国でした。1609年に平戸で開始された貿易は、1641年に出島に移った後も続き、1854年に日本が開国するまで約200年間続きました。

その一役を担ったのが、1602年に設立された世界初の株式会社「オランダ東インド会社」でした。オランダ東インド会社の目的は、貿易だけでなく、スペインやポルトガルに対抗するためでもありました。そのため、オランダ政府からは「条約締結」や「交戦権」などの特権も与えられていました。

当時の江戸幕府は、カトリック諸国のスペインやポルトガルに対して警戒感を抱いていました。スペインやポルトガルによる新世界の植民地化活動は『オランダ風説書』を通じて幕府に入って来てたようです。一方、プロテスタント国のオランダは、スペインとポルトガルと対立関係にありました。結果的に、オランダ東インド会社は江戸幕府に上手く取り入り、ポルトガルとスペインを追い出すことに成功しました。

オランダが「布教」ではなく「交易」を一番に求めていたことが大きな要因だったようです。以後約200年間、オランダが西洋との貿易を独占することになりました

蘭学 ≒ オランダの学問

解体新書『解体新書』出典:Wikimedia Commons

オランダとの通商により、さまざまなヨーロッパの書物や物資が日本へ持ち込まれ、「蘭学」として日本に伝わりました。蘭学というと「オランダに関する学問」のことのようですが、正確には「オランダを通して日本に入ってきた西洋の学問」のことを指します。

例えば、江戸時代に伝わった『解体新書』は杉田玄白や前野良沢などによって、オランダ語から日本語に翻訳されましたが、この書は元々ドイツ人の解剖学者ヨハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus)が著したもので、原著はドイツ語でした。

日本に伝わった蘭学は、天文学、測地学、物理学など多岐に渡りました。また海外情勢も『オランダ風説書』を通じて日本に入って来ていました。江戸幕府は特にカトリック国のスペインやポルトガルに関する情報の提供を求めたと言われています。鎖国下といっても、オランダを通じて西洋の情報は色々と入って来ていたようです。

日本は1854年に米国と英国、1855年にロシア帝国との間で和親条約を締結するまで、ヨーロッパの国でオランダとだけ通商を続けました。オランダとの間には1856年に日蘭和親条約が締結され、晴れて通商だけでなく国交も結ばれました。開国後は、蘭学ではなく「洋学」として、英語による「英学」、フランス語による「フランス学」、ドイツ語による「ドイツ学」などの先進的な知識や学問が入ってくるようになりました。

下の表は日本に伝わった外来語の時代区分です。

室町時代は、主にポルトガル語やスペイン語を介して、西洋の概念が日本に伝わりました。江戸時代は、約200年近オランダ語だけが西洋の窓口でした。明治時代は、オランダ語の影響力は低下し、英語、フランス語、ドイツ語などの外来語が多くなります。これは明治時代の日本が、これらの列強を模範として、近代国家の設立を目指していたことに関係しています。

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まとめ

今回は「なぜ&どのようにオランダ語の単語が日本に入って来たのか」についてご紹介しました。

日本とオランダの関係は、1600年に日本に漂着した「リーフデ号」に端を発し、1609年には江戸幕府とオランダとの間で朱印船貿易が開始されました。鎖国下の日本にとってオランダは、ヨーロッパで唯一交易を保ち続けた国でした。これは、オランダが「布教」ではなく「交易」を一番に求めていたことが一因です。日本に伝わった蘭学は、天文学、測地学、物理学など多岐に渡り、海外情勢も『オランダ風説書』通じて日本に入ってきていたようです。

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