なぜドイツ語の外来語は日本に入って来たのか

フェルクリンゲン製鉄所

日本語で使われているカタカナ語の半分以上は英語に由来すると言われていますが、ドイツ語由来の外来語も意外と日常にあふれています。ドイツ語の言葉が日本に入って来た時期を振り返ると、江戸時代や明治時代にまでさかのぼります。

今回は「なぜ&どのようにドイツ語の単語が日本に入って来たのか」について振り返ります。

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『解体新書』の原語はドイツ語

解体新書『解体新書』出典:Wikimedia Commons

日本とドイツの関係は江戸時代にまでさかのぼります。

江戸時代の日本は鎖国政策下にあったため、欧米諸国の中ではオランダとしか通商関係を結んでいませんでしたが、西洋の学問は蘭学として日本に伝わっていました。蘭学とは「オランダの学問」ではなく、「オランダ経由で入って来た西洋の学問」のことを指します。そのため蘭学にはドイツの学問も含まれていました。

実は、鎖国中でもドイツ人は来日していました。この時代に来日した有名なドイツ人は、医者であり博物学者でもあるケンペル(Kämpfer)とシーボルト(Siebold)です。どちらも「出島の三学者」に数えられている人物です。ちなみに、もう一人の出島の三学者は、スウェーデン人・博物学者のツンベルク(Thunberg)という人物で、三学者にオランダ人は誰もいませんでした。鎖国と言っても、実際は西洋との接点は意外とあったわけですね。

1774年に杉田玄白と前野良沢によって刊行された『解体新書(ターヘル・アナトミア)』は広く知られていますが、この書は元々ドイツ人の解剖学者ヨハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus)によって書かれたものをオランダ語に翻訳したもので、原著はドイツ語でした。

ドイツ語に由来する外来語の多くは、明治時代に日本語に取り入れられましたが、江戸時代にもすでに蘭学を通して様々なドイツ学が伝わっていました。ただ、全ての外来語が本来の意味で伝わったわけではなく、原語と意味が異なる場合もありました。最も有名なのがドイツ語由来の「カルテ」です。日本語では「診療記録」のことを指しますが、ドイツ語では単に「カード」という意味しかありません。誤用として日本に伝わり、現在でも一般的に使用されています。

鎖国の終わりと混沌とする日本

ペリー提督横浜上陸の図ヴィルヘルム・ハイネ『ペリー提督横浜上陸の図』出典:Wikimedia Commons

やがて鎖国が終わり、日本は開国します。ただ、厳しい世界が待っていました。

1853年に米国マシュー・ペリー率いる黒船が来航し、幕末が始まります。幕末の期間は諸説ありますが、この黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1868~1869年)までとされています。1854年には「日米和親条約」が締結され、1639年のポルトガル船入港禁止から続いた約200年間に及ぶ鎖国体制に幕が下ろされます。1858年には「日米修好通商条約」が締結され、同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間でも不平等条約が締結されました。これらの5か国との間に結んだ不平等条約は、総称して「安政五か国条約(安政の仮条約)」と呼ばれています。

1861年にはプロイセン王国(1701~1918年)との間でも修好通商条約が締結されました。これらの条約の交渉や調印のために、1862年にヨーロッパへ初めて遣欧使節団が派遣され、7月18日にはプロイセン・ベルリンにも訪れています。

開国をめぐって日本の内政も混沌とし始めます。1858年には「安政の大獄」によって不平等条約に反対する者が弾圧され、1860年には「桜田門外の変」によって大老・井伊直弼を暗殺される事件が起こります。1866年には討幕のために薩摩藩と長州藩が「薩長同盟」を結び、1867年には「大政奉還」によって幕府から朝廷に政権が返上されることになりました。

明治政府は江戸時代に不平等条約を締結させられた苦い経験から、富国強兵や殖産興業をスローガンに掲げ、経済力と軍事力の増強を目指しました。欧米列強と対等な関係を築き、不平等条約を改正するためには、近代的な国家建設が不可欠でした。そんな日本の近代化の模範となった国の一つがドイツでした。

明治時代の日本はドイツを模範にした

岩倉使節団「岩倉使節団」出典:Wikimedia Commons

明治時代の日本は、欧米列強と対等な関係を築くために、ドイツなどを模範にして近代的な国家建設を目指しました。ドイツからは、政治、法律、経済、医学、化学、物理学、教育など、広域な分野に関する技術や知識を取り入れました。

1871年には、不平等条約の改正交渉や西洋文明を調査するために、岩倉具視率いる「岩倉使節団」が、ヨーロッパ各国やアメリカ合衆国を訪れました。その後、明治政府はヨーロッパへの留学生派遣とお雇い外国人の招集を決定しましたが、1900年までにドイツから招聘されたお雇い外国人は1233人にも上ります。これはイギリスの4353人、フランスの1578人に次ぐ3番目に多い数です。

1882年には、後に初代内閣総理大臣になる伊藤博文もヨーロッパ派遣を命じられ、ドイツやオーストリアなどで憲法調査を行いました。1889年に発布された大日本帝国憲法は、ドイツ(プロイセン)憲法をお手本に作成されています。

この一連の近代化改革は明治維新と呼ばれています。明治維新がいつ始まり、いつ終わるのかには議論が多いですが、よくある説では、明治維新の始まりを、1853年の黒船来航、もしくは1858年の安政五カ国条約締結とする説。明治維新の終わりを、1877年の西南戦争終結、もしくは1889年の大日本帝国憲法発布とする説があります。

この時代に政府から派遣された留学生の4割はドイツへ留学したとも言われています。1884年には『舞姫』の著書で知られる森鴎外が、翌年1885年には「日本の細菌学の父」として知られる北里柴三郎が医学を学ぶためにドイツへ留学しました。「理研の三太郎」と呼ばれる長岡半太郎は1893~1896年に、鈴木梅太郎は1901~1906年に、本多光太郎は1907~1911年にドイツに留学しています。

日本とドイツの交流が深まったことにより、ドイツの文化や芸術なども次第に日本へ入ってきました。特に、音楽、登山、スキーに関する用語は、ドイツ語に由来するものがたくさんあります。例えば、スキー場を意味する「ゲレンデ」や、指揮棒を意味する「タクト」はどちらもドイツ語に由来しています。現在では、英語の影響によってドイツ語の外来語は徐々に減少していますが、今でも数多くの単語が日本語として根付いています。

まとめ

今回は「なぜ&どのようにドイツ語の単語が日本に入って来たのか」についてご紹介しました。

日本とドイツの関係は江戸時代にまでさかのぼり、蘭学を通して西洋の学問が日本に伝わりました。明治時代には、不平等条約の改正と欧米列強と対等な関係を築くために、ドイツなどを模範にして近代化改革を進めました。ドイツから取り入れた知識や技術は、政治、法律、経済、医学、化学、物理学、教育などから、芸術・音楽・スポーツまで多岐に渡ります。現在でも、日本とドイツの関係は文化・経済・技術・医療面を中心として活発な交流が続いています。

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