ポルトガル語は最も付き合いが長いヨーロッパの言語の1つで、日本語との関係は約500年前から始まりました。ポルトガルから伝わった「パン、かぼちゃ、天ぷら、ボタン」などの言葉は、ポルトガル語に由来するのだと忘れてしまうくらい、日常生活に溶け込んでいます。
今回は「なぜ&どのようにポルトガル語の単語が日本に入って来たのか」について振り返ります。
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日本に外来語が伝わった経緯・歴史
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海洋進出を目指したポルトガル
ポルトガルが領有したことがある領域 出典:Wikimedia Commons
15世紀頃のポルトガルは、香辛料貿易の独占とキリスト教の布教を目標に、積極的な海洋進出を目指していました。当時の地中海では、イスラム国家のオスマン帝国が高い関税をかけ、東方貿易を支配していました。ポルトガルやスペインなどの西欧諸国は、地中海貿易にそこまで依存していませんでしたが、アジアと繋がる新たな交易路の確保を目指しました。
1488年に、ポルトガル王であるジョアン2世の命によって、バルトロメウ・ディアスが南アフリカの喜望峰に到達しました。1498年には、マヌエル1世の命によって、ヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達し、新たな海上ルートが開拓されました。
1488年:バルトロメウ・ディアスによる南アフリカの喜望峰到達
1498年:ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓
1500年:カブラルによるブラジル到達
1522年:マゼランによる世界初の地球周航
ポルトガルが海外各地に築いた交易体制は「ポルトガル海上帝国」とも呼ばれ、15世紀から1999年のマカオ返還まで、6世紀も続きました。
ポルトガル人は最初に来日したヨーロッパ人
狩野内膳「南蛮人渡来図」出典:Wikimedia Commons
日本とポルトガルの出会いは、1543年に起こった、ポルトガル船(明船)の種子島漂着から始まります。種子島漂着は鉄砲が伝来したことで有名な出来事ですが、ヨーロッパ人が初めて日本を訪れた出来事でもありました。
漂着した年代については諸説紛々で、禅僧・南浦文之(なんぽぶんし)によって編集された『鉄炮記』によれば1543年、ポルトガルの探検家ディオゴ・デ・コート(Diogo do Couto)が著した『アジア史』によれば1542年、探検家フェルナン・メンデス・ピント(Fernão Mendes Pinto)の『遍歴記』によれば1544年頃に自身が鉄砲を伝来したと記されています。ただ、最後に紹介したピントは「ほら吹きピント(Fernão Mentes Minto)」とも呼ばれていた人物なので真相は定かではありません。
ポルトガル船(明船)の目的地は、元々中国の明で、台風に遭ったため偶然種子島に漂着しました。この時、誰一人として言葉が理解出来ませんでしたが、船に明の儒学者が乗っていたため、筆談で何とか事情を把握したそうです。ポルトガルと明朝の交流は1513年頃から始まり、国際情勢の収集はアジア広域へと広がっていました。
1549年にはフランシスコ・ザビエルが、1563年には『大日本史』を著したルイス・フロイスなどの宣教師も来日し、今までなかった西洋の物資・概念・思想がもたらされました。西日本では、大友宗麟や有馬晴信などの大名との間で南蛮貿易が始まり、カトリックに入信するキリシタン大名も登場しました。1639年にポルトガル船が入国禁止になり、鎖国体制が始まるまで、ポルトガルが「西洋の窓口」を担っていました。
疎遠になったポルトガル
出島の鳥瞰図 出典:Wikimedia Commons, Public domain
そんな古い付き合いのあるポルトガル語ですが、江戸時代の鎖国政策によって、関係が絶たれてしまいました。一般的に、鎖国は1639年のポルトガル船入港禁止から始まったとされています。
それ以前から兆候はあり、1587年には豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が、1612年には徳川家康によって「禁教令」が出されていました。南蛮貿易によって財力を蓄え、カトリックへ改宗した西日本のキリシタン大名に対して、江戸幕府が危機感を抱き始めていたことも一因でした。決定的な出来事が1637年に起きた「島原の乱」で、キリスト教が江戸幕府の元凶と認定されることになりました。このような経緯から、1639年にポルトガル船の入国が禁止され、鎖国体制が始まりました。
鎖国と言っても、当時の海外情勢は『オランダ風説書』を通じて江戸幕府に入って来たようです。そのため、スペインやポルトガルによる新世界の植民地化活動も、幕府の耳に入っていました。後に、日本と西洋の貿易を独占するオランダ(オランダ東インド会社)も、ポルトガルの排除に後押ししました。プロテスタント国のオランダと、カトリック国のスペインとポルトガルは、元々対立関係にあったからです。結果的に、「布教を伴わない交易が可能」と主張したオランダだけが、鎖国下の約200年間、西洋で唯一日本と交易を保ち続けました。
日本は1854年に「日米和親条約」を締結して開国します。ポルトガルとも1860年に和親・通商条約が締結され、200年ぶりに交易が再開しましたが、以前ほど活発にはなりませんでした。その理由は、ポルトガルがアジアの植民地の大半を失っていたからです。また、日本が欧米列強に追い付くべく、イギリス・ドイツ・フランスなどを模範としたことも大きな要因です。明治時代に近代的な国家建設を目標としていた日本は、英語による「英学」、フランス語による「フランス学」、ドイツ語による「ドイツ学」などを通じて、新しい学問や技術を取り入れようとしました。
下の表は、日本に伝わった外来語の歴史の時代区分です。
日本語とポルトガル語は、約500年前から始まる旧知の仲です。他の言語から伝わった外来語は、基本的にカタカナで表記しますが、ポルトガル語由来の単語は「天ぷら」や「かぼちゃ」など、ひらがなで書くこともあります。それだけ日本語として定着ているということですね。また、日本語とポルトガル語の関係は、ポルトガル語が公用語であるブラジルとの交流によっても活発になっています。
まとめ
今回は「なぜ&どのようにポルトガル語の単語が日本に入って来たのか」についてご紹介しました。
ポルトガルは15世紀頃から新たな交易路を確立するために海洋進出を目指していました。日本とポルトガルの出会いは1543年の「種子島漂着」から始まりますが、ヨーロッパ人が初めて日本を訪れた出来事とも言われています。1637年に起きた「島原の乱」は、キリスト教が江戸幕府の元凶とみなされる決定的な出来事となりました。1639年の「ポルトガル船入港禁止」から始まる鎖国政策によって関係が絶たれてしまいましたが、それまでポルトガルが「西洋の窓口」を担っていました。ポルトガル語由来の単語はひらがなで書く場合もあるなど、私たちの生活に浸透し、日本語として定着しています。